張り合おうとしてくる

2025.11.12

齢35になるアダルトチルドレンである。 今夏、両親と親戚の家に訪問しに行ったとき、母が「この子は張り合おうとしてくる」と言ったことが印象に残っている。 この子とは私のことで、娘が自分と張り合おうとしてくる、というように彼女は見ている。そう思えば腑に落ちる経験がたくさんある。例えば小中学生のとき、テストで少し良い点が取れたよと報告すると「そんなの良い点のうちに入らない。ママはいつも100点だった。クラスで1番だった」と返された。それを聞いた当時の私は「この程度で喜んでいてはいけないんだ、もっと頑張って100点を取ったり1番にならないといけないんだ」と落胆した覚えがある。前述の母の発言と照らし合わせると、要は子供相手に「ママの方が優秀だ」ということを誇示する、それこそ幼稚な発言と捉えられるのだが、当時の私は母に認めてもらいたくて頑張りを報告したらしっぺ返しをくらった訳だから、無情なものである。

それでいて不出来なほど喜ぶというわけでもなかった。運動神経が悪く泳げなかったとき、市民プールで体を鷲掴みにして猛特訓させられたり、そろばん教室をサボったことがバレて朝の寝起きどきに蹴られたり、進学のための入塾テストに向けて、熱が出ていても風呂場まで付いてきて猛勉強させられたり。私の不出来な部分を掘って突っつくことでわざと張り合うように仕向けたかったのかもしれない。書きながらも筋が通らない理論だなと思うが、そうでも思わないとやってられない。

子供が望む何か、その根源たるものは親からの承認である。子供を競争相手と見ていて、一人の大人として成長した今でもそれを承認する気がないのだから、もうこの親から「子供としての私が望む承認」は得られないのだと諦観している。インナーチャイルドのニーズというのは「あのときさせてもらえなかったことをしたかった」とか「あのとき与えられなかったものが欲しかった」という形で抽象化出来るのだが、それを満たそうと親に「あのときテストの点数を褒めて欲しかった」とか言って遅延要求を親に突きつけても良くてせいぜい「言葉」だけが返事として返ってくるだけであのときの私は報われないし、では「大人になった今社会に出て頑張っている私を褒めて欲しい」として今の自分とインナーチャイルドを重ねてロールプレイで体感しようとしても、なんだかそういうことじゃないんだよなぁ、と余計に落ち込むのがこの喪失感の本質である。

そういう意味で私が本当に欲しかったものは一生手に入らないのだと絶望している。この行き場を失った欲求について、自分で自分を育て直すように自分のためだけに人生を生きようとするしかないのだが、悲しいかな、本当に欲しかったそれを与えてもらったことがないが故に、自分での欲求の満たし方すらもよくわかっていないのだった。とりあえずあの頃させてもらえなかったこととして、コンビニのお菓子を片っ端から暴食してみたり、1日中不貞腐れて寝てみたり、タトゥーを入れたり整形したり、してみている。そのたびに「別にこんなことしたいわけじゃないんだよなぁ」と冷ややかな目線で見ている自分が頭の端に存在している。悲しい。だけれど、この冷たいブレーキをかける自分がいなければ、私はもしかしたら無敵の人になっていたのかもしれないし、それが私の持つなけなしの倫理なのかもしれない。